コトノハ#1
頑張って連日投稿(笑)。
先日、ドリフの仲本工事さんのインタビュー記事を読ませてもらって、ちょっと感動してしまったこともあって、それをなんとなく自分の歩んできた路(みち)と重ね合わせてみたりしました。
彼の言葉の中に
「人生というのは、やりたいことができなくなった時が出発点だと思う」
というのがありました。
なんとなく、その言葉が心に刺さったので、自分のしてきたことを振り返ってみました。
大学で建築学科に入ったものの、構造計算が全く出来ずに現実的な建築デザインができなくなった
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(造園コンサルタントとして出発)
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自分が構想立案し続けてきた「緑地(自然)の資材・資源循環」がどれも実現化する目処がない
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(実践の場としてミドリカフェを始める)
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場づくりとしては一通りのことをやり尽くしたので、ソフト面でやりたいことがなくなってしまった
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(デザイン・施工というハード面に特化したミドリカフェをHASE65でリニューアルする)
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施工現場では拘束時間が長く、また地域資源などに拘りすぎて工程調整が困難になる
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(施工現場を完全委託にし、自身はディレクションやコーディネートといった役割に鞍替えする)
振り返ってみると、一見自然な流れのようにも見えるわけだけど、それぞれの転換期においては、それなりに準備は大変だったし、それなりの覚悟も必要としてました。(生活かかってるしね)
でも履き違えてはいけないんだろうなと思うことは、「やりたいことができなくなった時が出発点」は、自分がやってきたことにブレがない、という流れの上に成り立っていることなんだと。
あれこれやみくもに挑戦してみてダメだった、だから次の新たな挑戦が出発点、では、得るものが少ないし、果たして自分がやってきたことを自分自身で認められるだろうか?褒めれるだろうか?と思ってしまうんですよね。
だから、そういった人たちが「身を自然の流れに委ねている」と言ったりすると、ちょっと違和感を感じずにいられない。
だって、その流れ、どこの河で流れているのかは、その人自身が決めないと“流れ”自体が存在しないわけで。
自分は、今の自分がやってきたことに誇りを感じるし、褒めてあげたいと思います。
それにしても、朝から自分を褒めてあげるって、いいことですねぇ。

写真は、昨年末の忘年会で。造園コンサルタントとして働いていた時の会社OBの集まり。今思えば超ブラックな会社(笑)だったけど、そこで培ってきたものをベースに、今はみんなそれぞれ違った取り組みで自然とか植物に向き合っている。みんな、誇らしかったし頼もしかったな〜。