アウトプットは、教えてもらうものじゃない。

先日、去年度までインストラクターを務めていた淡路景観園芸学校の学生たちの修論発表会を聴きに行きました。
彼らの代が、自分が接した最後の代だったのと、結構優秀な学生が多かったので楽しみもあって。
約1年ぶりだったかなー。
あの桃源郷のようなキャンパスに足を運んだのは。
働いていた当時に比べると色褪せて見えるんだけど、やっぱり何処か懐かしくて。
3年間だけだったけど、自分にとっては忘れられない場所になってる。
お世話になったフィールド管理のスタッフの方や、先生方の顔を見ると嬉しいよね、やっぱり。
自分は指導する側だったけど、学生の立場だったら結構楽しめたんだろうなー、と改めて思ったり。
発表会自体は、予想通りレベルの高いものでした。
特に、植物の生育環境と土壌の関係性だったり、地域の自然歴史学だったりと、自分好みの分野を扱ったテーマが多くて、なんだか嬉しかった。
寝なかったもんね。最後まで。
最優秀賞をとったのも、自分が立ち上げた部活生(土部)の女の子だったりと、別に自分は何もしてないんだけど、なんだか妙に嬉しかったなー。
今の学生さんは、本当に真面目だし頭が良い。
何かを分析するための段取りに長けてるし、工程もきっちり組み立てれるし、アウトプットもそれなりにテーマに沿って表現できる。
でも自分的に、ちょっとだけ物足りなさを感じる部分だったのは、アウトプットが素直すぎて変化球がない、というところ。
無難、が悪いと言ってるわけでは無いんだけど、せっかく学生という立場なんだから、もっと自由にやっていいし、許されるのに、と思って。
まあ、確かに優秀賞を決める審査員が、おじいさんばかりというのがとっても気になる部分であったわけだけど、それでもちょっとは挑んで欲しかったかなー。
今の自分の物事に対するアウトプットが天才的とは言えないし、その素質も無いけど、こんな自分でもずっと一つだけ大切にしてる「言葉」みたいなのがあってね。
それを今での実践している。(つもり)
それは前にもブログで話したんだけど、若いころに務めていた会社の社長さん(恩師)がいつも口癖にように言っていた言葉。
その当時の仕事は、行政関係の仕事がやたら多かったので、クライアントはもちろん役人さん。
全員がそうというわけでは無いんだけど、無事に、穏便に、形式だけで案件の落とし所を設定しようとする人たちが多いものだから、アウトプットも指示通り仕事を遂行すればすんなり終わる。
ただし、内容的には全く面白く無いものができると予想できちゃうので、仕事をこなしている時もつまらない。
どうしたらそんな仕事でも面白くなんだろう?と悩んでいた時に、その社長さんはこう言った。
「言われたことだけをアウトプットするんじゃなくて、“私はこう捉えました”というアウトプットを常に用意しなさい。」
下手すりゃ、ただの屁理屈になるんだけどね。
そのアウトプットでクライアントを納得させるには、選ぶ言葉のセンスとか、プランの大胆さが求められるんだよね。
で、それって結構自分という人間性の深み、と言うと大袈裟かもだけど、柔軟性とか味わいみたいなものが求めらるものなんだよね。
真面目に教科書通りやって、見知らぬ世界に飛び込むでもなく都合の良い内輪だけで行動が完結するような経験しかして来なかったら、こう言った感性は養われない。
自分が今まで聞いてきた数々の修論の成果の印象としては、後者のものが多い。
まあ、20代前半でそこそこ経験積めるような人はいないかもしれないけど、それにしてももうっちょっと…という物足りなさをすごい感じるよね。
怒られてもいいのに。
歳をとって誰からも怒られなくなったら、結構寂しいもんだよ。
まあ、この歳になって怒られるのは、やっぱり嫌だけど。(女子大生以外で)